吉田修平さんがSIEを卒業 クラッシュの思い出エピソードも!


吉田修平さんがSIEを卒業 クラッシュの思い出エピソードも!



ゲームファンならその名前を知らない人はいないはず。吉田修平さんは、30年に渡ってソニー・コンピュータエンタテインメント時代からソニー・インタラクティブエンタテインメント時代まで、様々な形でプレイステーションを支えてきた人物です。ゲーム開発者としても活躍し、「サルゲッチュ」をはじめとするプレイステーションでおなじみの数々の作品を手掛けてきました。こうしたプレイステーション立ち上げ期からの吉田さんのエピソードは、様々なメディアで見ることができます。

プレイステーションの大規模なイベントでは、吉田さんが登壇し 新しいゲームの発表を行っていた姿を覚えている人も多いのではないでしょうか。(もしくは、ネット配信番組「Jスタとあそぼう」で 色々なお菓子を紹介するおじさんのイメージがある人も?) そして、何と言っても 私たち クラッシュ・バンディクーファン には初代クラッシュのプロデューサーとしてもおなじみです。


今回、吉田さんが2025年1月14日にSIEを離れ、新たな道へ進むことが明らかになり、それに関連したイベントで クラッシュ・バンディクー の思い出をお聞きすることができたので、その内容をお届けします。

 


吉田修平プロデューサー(文中は吉田)
「クラッシュ・バンディクー」初代プロデューサー。「サルゲッチュ」など多数の大ヒット作を手掛ける。 SCEワールドワイド・スタジオのプレジデント、インディーズ イニシアチブ代表を経て 1月にSIEを退職。現在はインディーのパブリッシャやデベロッパのサポートを行っている。『会社を辞めたあとのほうが忙しいくらい』らしい!

――吉田さんのご活躍としては「クラッシュ・バンディクー」や「サルゲッチュ」をプロデューサーとして手掛けられたことも知られています。そうした作品について、当時ならではの意外な仕事として、遊園地で体験版を配ったことを以前お話されていました。


吉田:あぁ!はい、配りました!


――ぜひ、そうした「クラッシュ・バンディクー」などの当時の思い出やエピソードがあればお伺いしたいです。


吉田:「クラッシュ・バンディクー」が売れたことは、本当にマーケティングチームのおかげだと思っています。
クラッシュはアメリカで作られていましたよね。最初はそれを日本に持ってくるということで、色々な出版社さんを訪ねた時に「こんなバタ臭いキャラは売れないよ!」と言われたんです。 「こんなの売れない!」って。でも、言われたおかげで「じゃあ見た目変えましょう」となり、マーケティングで使用するクラッシュの目を、アメリカ版は緑色だったのを日本版は茶色にしたり、毛がぼうぼう生えていたのをツルっとしたCGにしたりしました。なので、アドバイスいただいたおかげで日本のユーザーさんにも受け入れやすい見た目なったと思います。最初からゲームは面白いと言われていたので。

「クラッシュ・バンディクー」は遊んでみたら面白い、だけど名前は知られていないというゲームでした。「クラッシュ・バンディクー」は3作か4作の契約だったので、1作目はとにかく知ってもらうために「儲からなくていいから!」と言って、最初のボスまでステージ5つくらいを遊べる無料の体験版を10万枚作ったんです。


――10万枚も!?


吉田:そう、配ったんです。 今はない遊園地が練馬にありますよね?


――としまえん?


吉田:そう。私も、としまえんに行って、手で配りました。としまえんに来ているお子さんたちやご家族に配りまくってました。たしか「アークザラッド」の発売の直後で、「アークザラッド」にも何か入れてもらったりもありました。 とにかく 「クラッシュ・バンディクー」って聞いたことないじゃないですか。「バンディクーってなに?」って。じゃあ歌を作ろうと。テレビCMで「クラッシュ・バンディクー♪」という歌を作って流したりだとか、そのあと次はダンスだと、クラッシュダンスも作りました。

天才的なマーケターの細谷さんという方が組んでくれました。ゲームはもちろん良かったですが、本当にマーケティング力のおかげだと思っています。


――ゲームとマーケティングの両輪ということですか?


吉田:ゲーム制作費よりも宣伝費が高かったですからね。


――お話にあった クラッシュダンスは、当時見ていた「おはスタ」でも登場していて、よくマネをしていたことを思い出します。


吉田:あぁ、おはスタ!そうそう。着ぐるみを作って、おはスタに出てましたね。


 

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